「オレ、別に悪くないっすよ」
それは、ある冬の日の午後。
中2のTくんが、ぶっきらぼうに言った。
テストの点数、前回からガクンと下がっていた。
でも彼は焦った様子ひとつ見せず、
むしろ椅子にもたれて、口を尖らせていた。
「だって、先生の説明分かんないし」
「教わってない問題がでたからわかるわけないし」
……きたな、って思った。
“ひとのせい”という盾。
言い訳?違う。これは防衛本能だ。
「ひとのせいにする」って聞くと、
大人はすぐこう思う。
『言い訳するな』
『自分の責任でしょ?』
でも、現場で見てると分かる。
それ、ただの責任逃れじゃない。
“自分が自分を責めすぎないための、本能的な防御”なんです。
だって、本音では分かってるんだもん。
「ヤバい」って。
「本当は自分のミスだ」って。
でもそれを認めたら、
自分がガッツリ否定される気がして、
怖くてしょうがない。
だから、「先生のせい」「問題が悪い」「環境が〜」って
無意識に逃げ道を作る。
これを、私は
“自己肯定感の最後の砦”って呼んでる。
「それ、誰のせい?」と聞く前に
あるとき、塾での面談で
お母さんがポツリとつぶやいた。
「うちの子、全部人のせいにするんです。
でも本当は、自分を責めてるんですよね…」
忘れはしない。
実際にそれを聞いて、胸がギュッと痛くなった。
子どもが“強がってる”の、
一番分かってるのって、やっぱり親なんですよ。
だからこそ大人は、
「それは誰のせいなの?」って追い詰めるより
「それって、どんな気持ちだった?」
って、“気持ち”に寄り添ってあげてほしい。
そこからしか、
“責任”への道は始まらないから。
ある中3男子の話:「俺、親のせいで不幸っす」
これは、実際にあった話。
中3のYくん。
いつも口癖は「ウチ、親が毒親なんで」
朝起きたらまず親の悪口。
授業の後も、「帰っても怒鳴られるだけ」って。
勉強なんて、する気ゼロ。
未来の話なんて、シャットアウト。
でもある日、教室でひとり居残ってた。
どうしたの?って聞いたら、
「今日、家帰りたくないんで」って。
その時ふと気づいた。
彼は“親のせい”にしてたんじゃなくて、
“親を責めないことで、自分を保ってた”んだと。
責めたら、自分が壊れちゃうから。
本当は、ちょっとだけ期待してるから。
「親が変わってくれたらいいのに」って、
心の奥で願ってるから。
彼は誰よりも「自分のせいかもしれない」って思ってた。
だから、全部“親のせい”にしてた。
責めないでほしかったんだ。
「全部お前のせい」って言われた日
僕も、昔、ひとのせいにしまくってた。
受験で落ちたとき、親のせいにした。
失恋したとき、タイミングのせいにした。
仕事でミスしたとき、上司の説明不足のせいにした。
ある日、友人に言われてやっと気がついた。
「お前って、いつも他人のせいにしてるよね」
「たまには、“自分が選んだ結果”って認めたら?」
頭がカッと熱くなった。
何でこんなにモヤモヤするんだ?
体がおかしな反応をしてる。
その場は適当に誤魔化した。
でも 違和感だけは消えなかった。
そして、寝る前に
「ハッ!」と気付いた。
“あれ全部、自分で選んだことだったな”って。
そう認めた瞬間、不思議とスッキリした。
言い訳を持ち歩くのって、
実はすごく重かったんだ。
“人のせい”は、軽そうに見えて、背中に乗っかる鉄アレイ。
子どもに伝えたい「責任の正体」
責任って、怖い言葉に聞こえるけど、
本当はこういう意味なんだと思ってる。
「自分の選択を、自分の力で書き直せる権利」
責任を取るってことは、
「もうダメ」って終わりを受け入れることじゃない。
「次は、自分で選び直すよ」って
前に進む力のこと。
だから、子どもたちが
“人のせい”から抜け出せる瞬間って──
実はすごく、すごくカッコいい。
僕はその瞬間に立ち会えたら、
もう泣いてもいいと思ってる。
これがあるから 塾長をつづけている。
読者のみなさんへ
あなたは、何かを“誰かのせい”にした経験、ありますか?
きっと、ありますよね。
それ、責めなくていいと思うんです。
だって、
それはあなたが自分を守るために、
全力で生きた証拠だから。
でも、もし今少し余裕ができたなら──
一歩だけ前に出て、「選び直す」って決めてみませんか?
その瞬間から、あなたの“責任”は
きっと“可能性”に変わります。
読んでくれてありがとう。
感想や気づき、あなたの「ひとのせい物語」もぜひ聞かせてください。
次回予告:「あきらめる」は、終わりじゃない。
あきらめた先に、何があるのか。
失敗、限界、心折れた夜。
でも、“あきらめる”って、
実は“見極める力”でもある。
第5話は、笑って泣いて、“自分との和解”を描きます。
次回、全力で届けます。
待ってて。



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